那須町は美しい自然と歴史が織りなす場所として知られていますが、その中でも殺生石は、不思議で神秘的な雰囲気を持つスポットとして注目されています。
今回は、実際に訪れて感じたことを交えながら、殺生石の歴史と魅力を紹介していきます!
殺生石とは?
殺生石は、那須町の北部、那須湯本温泉付近に位置する溶岩です。
殺生石=「命を奪う石」という名前の由来は、後ほど紹介する九尾の狐伝説に深く結びついています。
また、俳人・松尾芭蕉が「おくのほそ道」でこの地を訪れ、その記録を残したことでも有名です。
その歴史的価値から、殺生石は国の名勝にも指定されています。
敷地内には、盲蛇石や那須温泉の歴史を感じられる湯の花採取場跡など、興味深い史跡が点在しており、こちらも後ほど詳しくご紹介します。
さらに、周辺にはつつじ吊り橋や温泉神社、鹿の湯といった自然や文化を楽しめる観光スポットも豊富に揃っています。
歴史や神話に触れたい方はもちろん、那須の自然と魅力を満喫したい方にもぴったりのスポットです。
九尾の狐伝説とは?殺生石との関係は?
九尾の狐は、白面金毛の姿を持つ妖怪で、美しい女性に化ける変身能力を駆使し、中国やインドで悪事を重ねていました。
約800年前に日本に渡り、「玉藻前」と名乗って朝廷に仕官し、知恵と美貌で地位を築きながら国を滅ぼそうと企みます。
しかし、陰陽師・阿部泰成に正体を見破られ、那須野が原へと逃亡しました。
九尾の狐は那須野が原でも悪事を繰り返していたため、朝廷の命を受けた武士、三浦介と上総介によって退治されました。
退治された九尾の狐は「毒石」に姿を変え、毒気を放って周囲の人や動物を殺し続けました。
後に、泉渓寺の源翁和尚が毒石に向かい大乗経を唱えると、狐の姿が現れ、石は三つに割れました。
その一つが現在の那須町にある「殺生石」として残っています。
2022年3月には、殺生石が真っ二つに割れ、SNSでは「九尾の狐の封印が解けたのではないか」と話題になりました。
九尾の狐の伝説が残る、殺生石にひとりでやってきました。
— Lillian (@Lily0727K) March 5, 2022
縄でぐるっと巻かれた真ん中の大きな岩がそれ…
のはずなのですが、なんと岩は真っ二つに割れて、縄も外れていました。
漫画だったらまさに封印が解かれて九尾の狐に取り憑かれるパターンで、見てはいけないものを見てしまった気がします。 pic.twitter.com/wwkb0lGOM9
また、那須町の観光大使「きゅーびー」は九尾の狐をモデルにしたキャラクターとして、地域の魅力を広めています。
今年もお目見え!#クリスマスツリー #那須町観光協会 #那須 pic.twitter.com/w1hZX9L9fm
— 那須町観光大使 きゅーびー (@nasu_kyubii) November 21, 2024
その愛らしい姿は地元でも親しまれています。
九尾の狐伝説は、現在でも多くの人々に親しまれ、語り継がれています!
殺生石園地へ行ってみた!
私が訪れたのは平日の午後で、観光客は少なく、とても静かな雰囲気の中でゆっくりと散策を楽しめました。
敷地内は想像以上に広く、あたりには硫黄の香りが立ち込めています。
10月に訪れたため、ススキが至るところに生い茂り、秋らしい景色を満喫できました。
殺生石へと続く道を進むと、最初に目に入るのが「盲蛇石」です。
昔々のある冬のこと、この地で五右衛門という男が盲目の大蛇と出会いました。
彼は、蛇が厳しい冬を越せないだろうと気の毒に思い、ススキと小枝で小屋を作ってあげました。
翌春、小屋を訪れると蛇の姿はなく、輝く湯の花があるばかりでした。
その後、湯の花の作り方は村中に広まり、人々は蛇への感謝の意を込めて、蛇の首に似たこの石を「盲蛇石」と名付け大切にしたということです。(環境省/栃木県の案内板より引用)
結構大きな石で、どことなく不思議な力を感じさせるような存在感がありました。
じっくり観察してみると、細長い石の形がどことなく蛇の首のように見えるような、見えないような・・・😅
盲蛇石の隣には、「湯の花採取場後」があります。
地表から吹き出たガスの硫黄成分が結晶したものを湯の花といいます。
水に溶けやすいため屋根を掛け、地表に敷き詰めた赤土の上にできた湯の花を採取していました。
江戸時代、この地域では年貢米の代わりに、湯の花を納めていたことから、貴重な資源であったことがうかがえます。(環境省/栃木県の案内板より引用)
恥ずかしながら、湯の花について知らなかったのですが、入浴剤や医薬品、肥料などに利用されることが多く、古くから人々の生活に役立てられてきたもののようです。
年貢米の代わりになるほど貴重なものだったと知り驚きました。
そんな貴重な場所が、今でも当時の姿のまま残っているのはすごいですね!
殺生石の方へ足を進めて行くと、「教傳地獄」があります。
教傳地獄の由来
第96代後醍醐天皇の御代(1318)の頃、奥州白河在の五箇村に蓮華寺と言う寺があり、「教傳」と言う小坊主がおりました。
この教傳は生まれながらの悪童で、心配した母がこの寺に預かってもらうことにしたのでした。 その教傳も28歳になって、前の住職の跡を継ぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。
元亨元年(1336)のことです。教傳は、2・3人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになりました。その日のことです。母が用意した朝食を、教傳はまだ旅仕度も出来てないのにと悪口を言いながら、 蹴飛ばしてそのまま出発してしまいました。
那須温泉に着いた教傳達は、殺生石を見学しようと賽の河原附近まで行くと今まで晴れわたっていた空が、にわかに掻き曇り雷鳴が天地を揺るがし、大地から火炎熱湯が噴き出しました。
連れの友人は一斉に逃げ去りましたが、教傳は一歩も動くことが出来ませんでした。友人が振り向いて見ると「おれは、母の用意したお膳を足蹴りにした天罰をうけ、火の海の地獄に堕ちて行く」と、大声をあげ苦しみもがいております。友人が駆け寄り助けようと引き出しましたが、教傳の腰から下は炭のように焼けただれており息を引き取ってしまいました。
それからも教傳が引き込まれたところには泥流がフツフツと湧いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまいました。
その後、湯本温泉の有志が享保5年(1720年)に地蔵を建立して供養を行いましたが、親不孝の戒めとして、参拝する者が後を絶たなかったと言うことです。なお、現在の地蔵は、昭和57年に建立されたものです。
(観光商工課・那須町観光協会の案内板より引用)
千体近くものお地蔵さんが並ぶ光景には、びっくりしました。夜に訪れるのは怖いと思います💦
親孝行の大切さを改めて考えさせてくれるスポットでした。
足を進めていくと、敷地内の一番奥に殺生石が位置しています。
想像以上に大きく、その迫力に圧倒されます。
石にはしめ縄がかけられており、これは他の石と差別化するためだけでなく、周囲で噴出する硫化水素によって命を落とした動物たちの霊を慰める意味も込められています。
毎年、那須町のボランティア団体がしめ縄を交換しているとのことです。
その神聖な雰囲気と相まって、神秘的な感覚をもたらしてくれる場所でした。
施設情報
施設名 | 殺生石園地 |
場所 | 栃木県那須郡那須町湯本182 |
営業時間 | 24時間営業 |
定休日 | 年中無休 |
TEL | 0287-76-2619(那須町観光協会) |
公式HP | https://www.tochigiji.or.jp/spot/s9488 |
入場は無料です。
那須町中心部と比べると標高が高いため、秋冬に訪れる際は、しっかりと防寒対策して訪問することをおすすめします!